前日の投稿では、「高野連を始めとする体育連盟が、最早日本では、真夏のスポーツ大会を開催できる状況でないことを、認める日は来るのだろうか」と書いた。
では、例えば甲子園大会の開催前に話のあった、「一日の試合を二部制にする」といった改正案が、採用されることはあるのだろうか。
恐らく、ないだろう。
日本で何かが変わるのは、人が死んだ時だけだからだ。
闇金の法外な利息が、社会問題になっていたとき、政府は何もしなかった。
政府がやっと重い腰を上げ、ヤミ金融対策法を成立させたのは、苛酷な取り立てに悩まされた被害者が、電車へ投身自殺したからだ。
ワークライフバランスが叫ばれても、日本の会社は、変わらなかった。
残業が多過ぎると訴えても、頭がおかしいのではないかというような目で見られるばかりだった。
働き方改革なるものが、やっと認められるようになったのは、電通で、女性社員が自殺してからだ。
飲酒運転にしても、福岡で3人の子供が死ぬまで、なあなあだったし、あおり運転も、東名で夫婦が死亡するまで、何もしなかった。
小学生の通学路が危険とわかっていて、いくら父兄が声を上げても、飲酒運転のトラックが突っ込んで、小学生5人を殺すまで、何もしなかった。
どれもこれも、危険な状態を放置し、取り返しのつかない事故がおきるまで、動こうとはしないのが、日本のお役所仕事なのだ。
今回の安倍元首相銃撃事件も、安倍氏が死んでいなければ、旧統一教会と関係のある閣僚外しやバッシングは、恐らく起きなかっただろう。
まず、旧統一教会は、法に触れることは何もしていない。
その上、自民党の最大実力者である安倍氏自身が、旧統一教会と非常に良好な関係にあったため、その不利になるようなことを許さなかっただろうからだ。
このように日本では、国内外から見れば奇妙な政策であっても、自主的に何かを変えようとすることは、殆どない。
人が死ぬような大事件が起き、国民の「空気」が、「変更やむなし」というように変わってきて、初めて何かが変化するのである。
何しろ、あの戦争を始めるときも止めるときも、昭和天皇自身、「周囲の状況からしてしょうがない」と言っているくらいなのだから。
shakai-chireki-koumin.netwww.huffingtonpost.jp
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