『安倍暗殺が起きたのは日本が「指示待ち」で「暫定的」な国家だから』だという、元外交官氏のコラムが、出ていました。
はっきり言うと、全体としてこのコラムで、著者が何を言いたいのかは、私にはよくわかりませんでした。
話が、二転三転するからです。
まず著者は、安倍元首相が銃撃されたのは、「現場力の低下」のせいだと主張しています。
現場が警護の人数を増やせば、こんなことは起きなかったと言いますが、警察は、現場の判断で簡単に人を動かせるような、フレキシブルな組織にはなっていません。
何より、警察官の人数は限られているのですから、ある現場で人を増やせば、ある現場では、人を減らさなければなりません。
それを、現場の人間が一々融通を効かせていては、人の配置は無茶苦茶になります。
警察組織の融通の効かなさは、裏返せば、警護にしろ治安維持にしろ、ある一定以上のレベルを、確保するための手段でもあるのです。
著者の舌鋒は、ますます冴え渡り、次は日本人の安全神話に言及します。
『日本では毎日殺人やひどい事故が起きているのに、なぜか「日本は安全」マインドが染み着いている。』のだそうです。
ですが、警察白書によれば、『殺人の認知件数は,平成 16 年から 28 年までは減少傾向にあり,同年に戦後最少の 895 件を記録』しています。
現在の日本は、外交官氏の印象とは異なり、戦後で最も安全な社会なのです。
しかも、殺人の内訳は、被害者と被疑者が親族関係にある場合が、半分近くを占めています。
その上で、『嬰児殺の減少と、親に対する殺人の増加が、顕著』だそうです。
つまり、介護疲れによる殺人が大変多いということで、これは日本の安全とかいったこととは、何の関係もありません。
裏付けも根拠も全くない、新聞やネットニュースなどから得た、単なる個人の印象を持ち出して、社会を論じるのは、著者の元外交官時代の仕事ぶりが、非常に危ういように思えてなりません。
また著者は、デンマークなどの西欧諸国の人々と違って、日本人に公共心がないと憤慨しています。
その根拠というのが、『筆者の家の近くでは、信号のない横断歩道を左右も見ずに渡る歩行者が引きも切らず、何十人もの人間を乗せたバスがその前で立ち往生している。規則のとおりなのだろうが、バスや公共性の高い車両には歩行者が自分の判断で譲るべきではないか。』だそうです。
人々の公共心を云々するには、あまりに根拠が貧弱というか、卑近な例から導く結論が大き過ぎるというか、バランスが取れていない感じが否めません。
さらに、日本人は、『(セクハラは別にして)パワハラ、何ハラと、気に入らないことには何でも「ハラ」を付けて自分を守る』のだそうです。
どうも著者は、「公」の言うことには逆らわず、公共心を第一に暮らすのが、パブリックの概念を持つ、近代的な市民社会だと言いたいようです。
ですが、『ハラスメント』という概念自体、著者の大好きな西欧から入ってきたものです。
昭和時代は、そういう概念もなく、会社での苛めも、仕事ができない人間への愛情溢れる指導だと、甘んじて受け止めなければなりませんでした。
著者は、「セクハラは別にして」と言っていますが、恐らくセクハラも気に入らないのだと思います。
これをけなすと、女性からの反発が来るから、このように言っているだけでしょう。
一体全体、著者は、前職の「ウズベキスタン駐箚特命全権大使、兼、タジキスタン駐箚特命全権大使」時代、どのように部下に接していたのでしょう。
他人事ながら、当時の部下の方々の健康状況が、心配でなりません。
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