そもそも、今や、手書きの文字を書く機会など、殆どない。
字が下手で恥ずかしいのは、結婚式で、自分の名前を書くときくらいのものだ。
役所の書類には、色々と手書きのところが残っているが、大半が、自分の住所と氏名を何度も何度も繰り返されし書かされるばかりで、漢字を覚える必要はない。
それを考えれば、漢字は、小中学校の少なからぬ時間を使って、あれほど必死で学ばなければならないほどのものだろうか。
似たような形だらけだし、同じ文字を様々に読むなど、大人になってもよくわからない、ややこしい決まりだらけだ。
ハネとか払いとか、ちょっとしたことで○×を争うのも、まるで意味がなく、子供の学習意欲を削ぐだけだという気がする。
アルファベットだけですむ西洋人に比べて、そんな枝葉末節を課している分、日本の小中学生は、ハンディを背負ってしまっているのである。
ちなみに、筆者は、決して漢字が嫌いではない。
というよりも、大好きである。
小学校のときの漢字の小テストでは、10回以上連続で満点を取り、クラスでもダントツの一位だった。
加えて、読書は重要な趣味の一つであり、今でも年に二百冊を越える本を読んでいる。
だから、漢字が不要だと言っているのではない。
無理やり、漢字をなくそうとすれば、社会的な混乱は測り知れず、それは、次に日本が戦争で負けたときにでも、取っておけばいいと思う。
ただ、漢字かな混じり文というのは、日本人にとっても外国人にとっても、非常に厄介なものであり、しかも、できたからといって、国が豊かになるわけでもない。
スマホがあれば、それを見ながら書くこともできるし、カメラで認識すれば、読むことも、意味を調べることもできる。
機械ですむものを、機械に任せられるのであれば、苦労して学習する時間で、余程創造的な活動ができるだろうと言いたいのである。