日本維新の会の藤巻健太衆院議員が、ツイッターに、「三角関数よりも金融経済を学ぶべきではないか」と投稿したことが、しばらく前に話題になった。
ググれば、賛成意見や反対意見が、星の数ほど出てくる。
高校までで、何を学ぶべきかというのは、人それぞれに意見があろうが、三角関数は、特に槍玉に挙げられることが多く、何年かに一度、忘れた頃に不要論が出てくるものらしい。
今から50年以上前の1968年に発売された、高石ともやの「受験生ブルース」という曲にも、「サイン コサイン 何になる」という歌詞があるほどなのだから。
但し、三角関数に限らず、高校まで苦労して身に着けながら、社会に出てからの40年間、一度も使ったことのないものは、いっぱいある。
最も一般的に思いつくのが、古文や漢文であろう。
平家物語では「祇園精舎の鐘の声」、論語では「朋有り、遠方より来たる」と、無理やり覚えさせられたが、意味はよくわかっていないし、その先はうろ覚えである。
もちろん、その後は使ったことはない。
歴史も然りだ。
「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府」は、今では、「1185(いいはこ)作ろう」になっていると言うが、我々が生活する分には、どちらでも困りはしないし、やはり使ったこともない。
歴史や古文は、まだいい。
時代が下っても、内容が、そうそう変わらないからだ。
地理などは、もっとひどい。
新潟県の米の生産量がいくらと習っても、そんなものは、20年も過ぎれば変わってしまうし、今では全く役に立たなくなっている。
なのに、なぜ古文や、歴史、地理などの不要論が出ないかと言えば、覚えるだけの授業が大半だから、誰でもそれなりに点が取れるからである。
ところが、三角関数を始めとする数学は、そうはいかない。
ある程度の理屈を理解していないと、一問も解けなかったりする。
多くの(特に文系の)人たちにとって、三角関数が、あまりに難しかったという記憶が残っているために、三角関数不要論が、何度も甦ってくるのだろう。
その上、抽象的過ぎて、「何に役に立つか」がわからないため、学ぶ気になれないということではないか。
それを解消するためにも、特に数学などは、「何に役に立つか」を、一緒に教えた方が、いいかもしれない。
尚、「自分は文系だから、理系には関係のない仕事をする」と考える人もいるかもしれないが、人生、どこでどう転ぶかわからない。
出版社に就職しても、ブルーバックスの編集をするかもしれないし、市役所に就職しても、公共事業がらみの仕事をするなら、測量などで必要となってくる。
将来、何がどうなるかわからないから、その時に「概念さえもわからない」ということにならないように、高校までの教育は存在するのである。
(続く)