そもそも、あおり運転をする人間は、法律違反を犯しているということを、忘れてはいけない。
その違法なドライバーに対して、遵法ドライバーが、なぜ遠慮しなければならないのか。
歩道では、どんなスピードで歩く人でも、歩く権利を保証されている。
目や手足が不自由な人が、「流れに乗れない」からと言って、歩くことを邪魔される権利はない。
それは、道路でも、同じでないといけない。
高速道路で最低速度より遅かったり、追い越し車線を走り続けるといった「明らかな交通違反」を犯さない限り、遅いドライバーにも、もたもたしているドライバーにも、運転する権利がある。
運転免許証を持っているのだから、流れに乗って走れる筈だと思うかもしれないが、そうではない。
運転免許証というのは、道路に出て、事故を起こさずに帰ってくるだけの能力を保証するものであって、誰が決めたとも知れない「流れ」に乗ることを要求されるものではないのだ。
しかも、誰かが交通違反を犯しているからといって、その違反ドライバーを実力で止める権利は、ドライバーにはない。
それは、私刑と言う。
あおり運転に合わないための、「あおられない運転方法」を説く自動車評論家という人種は、クラスでイジメがあったときに、イジメをする生徒を注意せず、「苛められない方法」を、教えてやる先生のようなものだ。
肩を怒らせて歩いているヤクザに対して、絡まれないようにするには、どうすればいいかを説いていると言ってもいいだろう。
そんな時代は、昭和で終わっている。
今では、ヤクザが普通の人に絡むことがあれば、すぐに警官に目をつけられる。
自動車の世界でも、すぐにそのようになる筈だ。
いつも、読んでいただき、有り難うございます。
「にほんブログ村」ランキングに参加しています。
応援をよろしくお願い致します。